言語

先日書いた、飛行機のお友達に会ってきた。

 

 

 

彼はいま、コンピューターと会話する言語の開発をしているとのこと。

一般人に理解できる範疇を大幅に超えすぎていたけど、こちらで解釈したのは

 

 

・この世の共通言語が英語であるように、誰もがPCと会話できるように言語をつくっている

・このPC言語は私たちの身の回りにある全ての電子機器(スマホや飛行機まで)に適用されるもの

・そして、言語をより良くするため改良を重ねているらしい。

・言語改良の目的として分かりやすい1つの例は、機械の反応速度(検索速度とか)をあげる

私がもみ砕いて解釈できたのはここまで。

 

 

 

会話の中で、「エモい」という言葉について話題になる。

個人的にエモいという言葉が好きではない。

様々な複雑な感情が折り重なっているはずなのに、あまりに残念にまとめられている気がする。

こういう簡易的な言葉が蔓延りすぎるから思考能力は低下して

ひいては日本経済に影響をもたらしているとさえ思う。

 

、、、という話をしたら、これはPCの言語においてもあるらしい!

PCに「エモい」のような簡単な言語を覚えさせることで、PCの思考をとめる力があるようだ。

思考能力を失っていくPCの知能は低下し、そこから負のループが始まるそう。

(PCにも感情があるんだって、不思議だよね~~)

なので言語改良は常に必要であるらしい。

一方で、思考能力をあえて低下させて、人間がPCをコントロールしやすくする

ということもあるそうだ!これも日本経済と通じている話だと思う。

 

 

このような感じで、こちらの仕事や興味関心のある話をすると

全てプログラミングの世界の話に繋げて共感してくれた。

 

 

これってとても面白いと思う。

私たちの使用言語は日本語だけど、「言語」という共通項が

全ての世界を繋げている感じがして、わくわくした。

 

どの世界とも抱える悩みって同じ方向に寄っているのかなぁ、とぼやぼや考えた。

 

 

 

すっかり記憶にないけど、夏休みには一緒に自由研究をしていたそうだ。

しかも塾も一緒で、仲良く勉強していたらしい。

こんなにも覚えていないものなのだな、と驚く。記憶って曖昧だ。

 

 

誰かの中で自分の知らない自分が生き続けているということが、嬉しかった。

15年ぶりの再会、とてもいい夜だった~

おそとのこと

今の会社には2年間という約束がついている

2年の旅行に来ているような、期限つきだから色々考えることたち

 

①時の過ぎるはやさは恐ろしい

時の流れは恐ろしい。こう、終わりあるものに向かって時間をカウントダウンするのって

学生ぶりだなと思う。

幼稚園、小中高大、あと何年で卒業かと考えることが常だったが、社会人には区切りがあるようで無い。

カウントダウンすることで何ができるってわけじゃないけど。

時を刻んで考えると切迫感、焦燥感と共に時の流れのはやさに触れてしまう。

 

②世界は広かった

新卒から働いていた会社は、今思うと精神を強く持たないと生き残れない会社だった(と思っている)(自社調べ)

色々な感情に対して、社会人ってみんなこんなもんだと思い心を無にして働く毎日だったが

今の会社にきて、あれが世のスタンダードじゃないのでは?と気がついてきた。

それぞれの環境で様々なことがあるので「1番大変だった」と言いたいのではなくて

追われる時間の流れが独特だった、それ故少し独特な辛さがあったと思うのだ。

 

何事もやり抜いた先に見えるものがあると信じているので

私はそこで進むことを選択してきたけど

いま離れてみて、無理にそこで頑張ることだけが正義じゃないと思える。

なんかしっくりこなきゃ、次へ行けばいい。

次に動くこともまた、同じかそれ以上に大変なことである

 

③仕事を続ける理由

仕事は基本、めんどくさい。辛いし、嫌だし。その時間あったら自分の好きなように過ごしていたいし

だけど私はこの先もずっと働き続けたいと思っている。

色々な理由があるが、その一つに「上回るご褒美の瞬間」がたまにやってくるからだと気づく。

仕事の中で、特別な感情が湧く「ご褒美の瞬間」にたまに出会う。

その感情には、仕事をしているから出会えるものであって

快楽を簡単に求めるような手段では絶対に会得できない、その甘い蜜を心の頼りに、

また進み続けてしまえるから不思議だ

これってどんな場面にも適用できるはなしだと思っていて

想像でしかないけど、結婚とかも同じでないかとぼんやり考える。

他人と家族になるとは、煩わしいことの方が多そうだけど

ご褒美の瞬間のような閃きが、結婚生活を続けさせるのかな?

でないと結婚の制度なんてどうにも理にかなわないじゃないかと思う。

 

 

考え事の大きなトピックスはこんな感じ。

 

 

今日はお仕事でとある国の首相にお会いした。

日本では嗅いだことのない、香水だろうか?メロンのような香りが会議室に充満していた

東ヨーロッパのお国の方で、その国の特産品である蜂蜜やワインを試食させてくれた。

蜂蜜は知っている味じゃなくて、顔が歪んでしまうほど独特な風味で、、、

世界は広いのだなと思った。

 

 

世界は広い、外に目を向けて、出てみると

この世のほとんどを知らず、触れずして死んでいくのだろうなと思う。

ネガティヴな話ではなく、それくらい世界は広すぎると感じる

海外いきたいな~!

 

飛行機のお友達

 

幼稚園から小学校まで、とても仲の良かった男の子からSNSのフォローリクエストがきた

 

小学生以来、全く連絡をとっていなかたったので気が付かなかったけど

突然その英語表記の名前が頭の中で漢字変換され、うわっと思い出した

 

 

 

ページに飛んでみると、自分で作成したらしいHPやブログがあり

全て英語で作成されていたから、いまいち解読できないのだけど

見慣れない記号と数式のようなものが羅列されていて

プログラミングのような?ものがずらずらと並べられていた

そしてアメリカやインドやヨーロッパ、と世界を飛び回っているようだ。

 

その他に、飛行機のアイコンと自分の顔がセットになったイラストに

「いつか絶対に機体をつくるんだ!」みたいなコメントが添えられていた。

 

 

そうそう。

記憶を掘り起こすと、彼は小学生の頃から飛行機と算数が大好きで

そのことを話させると、ものすごい早口で、興奮して、目をきらきらさせて

話してくれていたことを思い出す

いっつも飛行機の話するから、顔も飛行機に似てるなぁって見てた

けど何かその早口と興奮してる顔を見るのが好きで、よく機体の話を聞いていた気がする

 

 

イラストと投稿をみる限り、

多分彼は小学生からずっと同じ夢を追いかけ、

確実にそこへの階段をのぼっているようだった。

 

 

 

安住さんのラジオで、涙した話を思い出す

20年ほど前に、通訳の仕事に就くのが夢だという声を、

リスナー投稿の1つとして読まれた女の子がいた

20年の時を経てその夢を叶えた、今は海外を飛び回っていると。

あの時安住さんにラジオで背中を押してもらえたことで、今の私がいると

そういった内容だった。

(安住さんのラジオ歴史長くて驚く)

文字に起こしてみると簡単にまとまってしまうけど、

ラジオで聞くそれは、とても抒情的で

時の流れの温かさと1人の女の子の成長と、

そして人が働く意味の全てが詰まっていて、泣いた

 

安住さんの

「自分の声なんかがちゃんと届いていて、誰かの助けになってた思うと

あぁ頑張ってきてよかった。そしてこれからも頑張ります」と

鼻水たらして泣きながら話していた、そして私もまた泣いた。

 

 

 

彼のSNSを見て、この時と同じように

1人の物語をみたようで、そして時の流れを重く感じ取り

安住さんのように自分は一助に全くなっていないけど

まだ夢が夢だったその小学生時代に

その夢を聞けていたことを、本当にうれしく思った。

 

 

すごいな、すごいな、頑張って!と思う

 

 

やっぱり「好き」の感情に勝るものはないのだ

そして、新しい未来を切り開いていくのも、やっぱり「好き」を諦めない人だと思った

 

 

便利な世の中だからこそ感動できた、この嬉しさを噛みしめてる

千代田線の人

毎朝通勤中、千代田線で一緒の車両になる

印象的なお姉さまがいる。

印象に残っている理由は2つあって

 

1つめは、煙たい顔をされたことがあるから

冬の寒い日、もけもけのコートを着てシートに座った。

すると隣からとんでもない視線と、私と接触している腕を手ではたく音がする

何かしたかな、と思って隣を見ると、どうやら私のもけもけコートが自分のコートに

付着することを嫌がっていた

確かに申し訳ない。これ、もけもけ散布させそうだし

猫の毛みたいにつきそうですよね、わかります。

でもね、何度も手ではたかれているから分かると思うけど、

このもけもけは抜けないタイプのやつなのよ

 

 

強すぎる視線を注がれたまま、会社の最寄りまでずっと窮屈な思いをした。

 

 

2つ目は、ひと際目を引くファッションであること

目をしばたかせたくなるような、鮮やかなパープルのコートに

耳が伸びてしまいそうな、大きなシャネルマークのチカチカピアスぶらさげて

鉛筆の芯みたいに細いピンヒール、虎柄を添えて

クリアのクマちゃんがくっついた大きなスマホケース(私ビューだと生贄のクマ)

爪は派手に施されている

なみなみしている漆黒ヘアー

あと、なんかいつも怖い顔している(気がするだけなのかな…)

 

人を見た目だけで判断するのはもったいないので

パーソナルな部分を否定したくない自分と戦うけど

もし、とても親切な人であるなら、見た目で損しすぎだと思う。

 

 

この2つの理由で、この日から心の中でメデューサと呼んでいる

 

 

本当に毎朝会う。

そして、メデューサが前に立っている座席は必ず空く。

どの人がどの駅で降りるか覚えてるのだね

 

今朝も座るメデューサがいた。

メデューサは毎朝スマホゲームをしているのだけど

特に今日は、長く派手な爪で画面を激しくカチカチ叩く音が

心地よく読書をしている私の空間に捻転してきて、耳障りでしばらく見てしまった

 

 

目の前に座るその人が画面に落とす目は、

激しい指の動きや鮮やかな服装と反して、空っぽだった

本当に空っぽの目をしていて

 

それをじっと見ていると、

何か分からないけど泣きたくなるくらい、ひどく哀しい気持ちになった

つぶやき

宙に浮いている言葉が気になるというつぶやき。

 

 

何年も前のこと、可愛がってくれる会社の先輩との会話で

誠実な男性が好みだと言ったとき

「誠実さか、、、とても難しい言葉だね」とボソッと言われたことがある。

その光景も、その感情もずっと心に残っている。

 

言わんとすることが掴めずに、あの時から誠実さについてずっと考えているのだけど

 

最近辿りついたことは

「その人がどういう自分でありたいか」という像が、

こちらの求める理想と一致している人のことを、「誠実だ」と呼ぶのではないか、と。

 

 

大前提として自分を深く省みることができない人は同じことを繰り返すので

内省するという行動等の蓄積がある程度の形をつくっていく。

 

例えば、浮気で例えると

「浮気をしてはいけない」という抑圧は一時的措置で

やがて背徳感が蜜となり、同じことを繰り返すと思う。

内省するなかで「浮気をしている自分がださい」というところまで辿りついた人と

「浮気をしてほしくない」相手との間に生まれるものを勝手に「誠実さ」と呼ぶのかな?と考えている。←これ最新段階

だからあの頃は誠実という言葉に、縋っていたのだと思う。

 

 

別に浮気のことを考えたいわけではなくて、

言葉と人との間に空間があり、宙に浮いている言葉、

自分の内に存在するものを観じることで浮かび上がる言葉が、世の中に隠れていると思っている

 

「ありのままの自分」とかも宙に浮いている言葉だなと感じる。

ありのままの自分はまず存在しないと思っていて

自分の思うありのままの自分を演じて、

世間は裸の他人を勝手に夢みる、それをぐちゃぐちゃにして

平均をとったのが「ありのままの自分」と呼ばれると勝手に考えていて。

ありのままの自分なんて、思考を伴わない肉体だと思う。

だけど、ありのままの自分という言葉に、

人は安心するところがあるんじゃないかと思う。

 

 

辞書の意味から言葉が離れて存在しているというか

その言葉がその意味通りに存在するのではなく、宙に浮いていて

見えないものに対して無理やり言葉をつけた、みたいな

人の心の柔いところを支えるために、縋るための言葉というか。

うまく表現できないけど、言葉に助けられていると言ったら一番近いのかな…

 

 

 

今文章にしてみてもこの感覚をうまく言語化できなくて

書いてみると偉そうに聞こえる気がして少しそわそわしている。

言葉と思考に空間があいている感じ…

 

とにかく、実は意味の存在しない宙に浮いた言葉たちが

とても気になっているというつぶやき。

聖子ちゃんと松本隆と宮本輝

詩人であり作詞家の松本隆が大好きだ。

きっかけは松田聖子ちゃんからで、聖子ちゃんの歌詞が好きなことに気が付き

そのほとんどを手掛けた作詞家・松本隆を知る。

 

 

そこから松田聖子松本隆熱は冷めず、

なかでも特に好きな「蒼いフォトグラフ」が主題歌にされた

青が散る」というドラマがあったことを知り

そのドラマの原作を手掛けたのが宮本輝だった。

聖子ちゃんの歌の世界観がどう描かれているのか気になり

青が散る」を読み、言葉にできないその素晴らしさに、衝撃を受けた。

そこから、宮本輝を好きになり、読み漁りまくり、今に至る。

 

好きが導き、新しい好きを見つけた

ありがたいサイクル

 

 

今までの人生で、特定のアイドルや俳優

周りの人以外の何かに夢中になったことがなく

所謂「オタク」たる部分を持ち合わせぬまま大きくなった。

無趣味な親から生まれたしな、とか思っていた。

(人のせいにすな)

 

 

これについて、学生時代は「執着しない」という点で誇らしくもあったが(しょーもない)

社会人になって大きな大きなコンプレックスに変化した。

 

 

何か夢中になれる別の世界がない自分は

親がいなくなったら

友達がいなくなったら

何かあったときに、心の支えたる、

自分だけの空間がないことに気が付いたから。

 

とにかく人が大好きなので、人に支えられて生きるのもいいけど

それだけでは何か欠落している気がした。

他者を介在させない、内から生み出すエネルギーで

自分を支えたいと強く思った。だから努力しようと決めた。

 

 

それから自分は

陶芸をやってみたり、お花を習おうとしたり

絵を描いてみたり、書道をやろうとか、ダンスしようとか

もしかしたら、転職活動もその一つだったかもしれない。

 

とにかく必死に、色々試してみたけど何一つひっかからない。

今振り返ると全ての順番が逆で

欲しい結果を簡単に手に入れようとするあまり、

「これをやっている自分」を自分で眺めて満足していたと思う。

だから本質的に満たしたい部分は空のまま

 

 

なので私が言いたいことは

今、本当に幸せいっぱいであるということ。

見返りを求めず声を大にして好きといえる、その対象の存在はこんなにも尊いのか

と思うわけです。

何かに熱中していた皆さんはこんな幸せだったのね。

今になって思う、羨ましいです。

 

 

 

好きなものを必死に模索して迷走していたときも、

今、陶酔して、感動して、涙する世界ができたことも

宮本輝の言葉をお借りすると、

“外的偶然により内的必然を観ずる”

という言葉につきる。

これは一種の宗教的概念らしいが、個人的にしっくり落ちる。

この人に(ものに)出逢って私は変わった!という言葉をたまに耳にするが

それも全て内的必然を自ずと「観じて」いるのではないか

 

 

 

 

長くなってしまったけど

とにかくこの想いをいつかここに残しておきたいと思って

やっと書けたし、書いてみて、また新たに気づくこともあり、驚いている。

私は文章を書くこともまた、好きらしい。

 

 

 

思慮深さは闇と化し、豊かさと色香を纏う

人生は巡回している

 

これは、誰の言葉でもなく

わたしが、松本隆宮本輝と出逢い、わいた感想。

 

今年になって、自分のめんどくさい部分が顔をだしている。

そして昔より、世の中を生きやすくなったと感じる。

そんな自分が少し好きである。

 

 

松本隆の娘さんは、私たちと同じ母校らしい。

松本隆の事務所は、学生時代のバイト先の隣だったらしい

聖子ちゃんのコンサートには、今年必ずいく

宮本輝との接点は、まだない!

やさしさ

穿った見方をしてしまった」

穿った考え方だよね」

 

普段、当たり前のように使っていた「穿った」という言葉

先日、読んでいた本で「穿たれた洞窟」というフレーズに出会い

「穿たれた」の意味が分からず調べた。

―穴をあける、貫き通す、といった意味で、それが「物事を深く掘り下げる」といった意味に転じて、「物事の本質をうまく的確に言い表す」という意味も持つようになりました。 「彼の話は真相を穿っている」といった使い方もします。―

 

・・・え。

これが正しい意味だとすれば、今まで使っていた「穿った見方」は完全に真逆の意。

曲がった、単純でない、斜めから、のようなニュアンスで使っていたし

世の中のほとんどがそうよ・・・ね?

 

 

Google先生によると、現代の人が誤った使い方をするのは

「疑った」と音が似ているせいかもしれない、とのこと。

 

え~~びっくりだよ、しかも真逆ではないか。

 

 

だけど、ここで本来この言葉が持つ正しい意味を知ったとて

真髄に触れる考え方をしている人に「穿った考え方ですね」なんて、言う日はこないだろう。

だってその人が誤った「穿った」認識をしている可能性の方が高い。

失礼な誤解を与えてしまうことになる。

 

 

正しい日本語を知っているから、それで何になるか?と言われれば、別に何もない。

だけどできる限り、色々な言葉を知りたい。

日本語のもつ底深さ、絶妙なニュアンスを表現するところがとても好きなのと

表現しがたい感情に、一番近い言葉をもっていたいからだと、思う。

 

その時代の文体と空気が好きで、70年代から80年代の文学書にはまっているのだけど、

あまりに言葉を知らなすぎるに尽きるが、分からない言葉だらけで話が進まないったら進まない。

知らない単語が出てくるたびに調べて、好きな言葉を書き留める。

例えば、「哀艶」。意味としては、美しさの中に悲しみの感じられるさま。

なんと言いえて妙なのだと心打たれる。

哀しい艶、艶の哀しみ、と書いて哀艶、

心の柔いところをつつかれたようで

こうした言葉に出会うたび、生きる喜びを感じる。大げさだけど

 

 

好きな作家さんの言葉で

「人に誇れる取柄など持ち合わせていないけど、人の苦しみに同苦できるというところだけは、声を潜めて言える。これが言えるのは、これまで読んできた文学たちのおかげである」と

 

 

できる限り、沢山の文学に触れていようとするのは

この人の言っているところに到達したいのかもしれない。

 

 

分からない言葉は、何度も何度も読んで、言葉を剥がしていく。

そうやって、言葉を、人を、世界を、考えてみる。

 

そして、やさしさについてよく考える。蔓延る「やさしさ」ではなく

もっと本質的な、本然たる人間のやさしさを。

答えはみつけていないけど、文学に触れることがその一助であることは確信していて。

わたしは、やさしくなりたい、そのために努力を惜しまない