「穿った見方をしてしまった」
「穿った考え方だよね」
普段、当たり前のように使っていた「穿った」という言葉
先日、読んでいた本で「穿たれた洞窟」というフレーズに出会い
「穿たれた」の意味が分からず調べた。
―穴をあける、貫き通す、といった意味で、それが「物事を深く掘り下げる」といった意味に転じて、「物事の本質をうまく的確に言い表す」という意味も持つようになりました。 「彼の話は真相を穿っている」といった使い方もします。―
・・・え。
これが正しい意味だとすれば、今まで使っていた「穿った見方」は完全に真逆の意。
曲がった、単純でない、斜めから、のようなニュアンスで使っていたし
世の中のほとんどがそうよ・・・ね?
Google先生によると、現代の人が誤った使い方をするのは
「疑った」と音が似ているせいかもしれない、とのこと。
え~~びっくりだよ、しかも真逆ではないか。
だけど、ここで本来この言葉が持つ正しい意味を知ったとて
真髄に触れる考え方をしている人に「穿った考え方ですね」なんて、言う日はこないだろう。
だってその人が誤った「穿った」認識をしている可能性の方が高い。
失礼な誤解を与えてしまうことになる。
正しい日本語を知っているから、それで何になるか?と言われれば、別に何もない。
だけどできる限り、色々な言葉を知りたい。
日本語のもつ底深さ、絶妙なニュアンスを表現するところがとても好きなのと
表現しがたい感情に、一番近い言葉をもっていたいからだと、思う。
その時代の文体と空気が好きで、70年代から80年代の文学書にはまっているのだけど、
あまりに言葉を知らなすぎるに尽きるが、分からない言葉だらけで話が進まないったら進まない。
知らない単語が出てくるたびに調べて、好きな言葉を書き留める。
例えば、「哀艶」。意味としては、美しさの中に悲しみの感じられるさま。
なんと言いえて妙なのだと心打たれる。
哀しい艶、艶の哀しみ、と書いて哀艶、
心の柔いところをつつかれたようで
こうした言葉に出会うたび、生きる喜びを感じる。大げさだけど
好きな作家さんの言葉で
「人に誇れる取柄など持ち合わせていないけど、人の苦しみに同苦できるというところだけは、声を潜めて言える。これが言えるのは、これまで読んできた文学たちのおかげである」と
できる限り、沢山の文学に触れていようとするのは
この人の言っているところに到達したいのかもしれない。
分からない言葉は、何度も何度も読んで、言葉を剥がしていく。
そうやって、言葉を、人を、世界を、考えてみる。
そして、やさしさについてよく考える。蔓延る「やさしさ」ではなく
もっと本質的な、本然たる人間のやさしさを。
答えはみつけていないけど、文学に触れることがその一助であることは確信していて。
わたしは、やさしくなりたい、そのために努力を惜しまない