宙に浮いている言葉が気になるというつぶやき。
何年も前のこと、可愛がってくれる会社の先輩との会話で
誠実な男性が好みだと言ったとき
「誠実さか、、、とても難しい言葉だね」とボソッと言われたことがある。
その光景も、その感情もずっと心に残っている。
言わんとすることが掴めずに、あの時から誠実さについてずっと考えているのだけど
最近辿りついたことは
「その人がどういう自分でありたいか」という像が、
こちらの求める理想と一致している人のことを、「誠実だ」と呼ぶのではないか、と。
大前提として自分を深く省みることができない人は同じことを繰り返すので
内省するという行動等の蓄積がある程度の形をつくっていく。
例えば、浮気で例えると
「浮気をしてはいけない」という抑圧は一時的措置で
やがて背徳感が蜜となり、同じことを繰り返すと思う。
内省するなかで「浮気をしている自分がださい」というところまで辿りついた人と
「浮気をしてほしくない」相手との間に生まれるものを勝手に「誠実さ」と呼ぶのかな?と考えている。←これ最新段階
だからあの頃は誠実という言葉に、縋っていたのだと思う。
別に浮気のことを考えたいわけではなくて、
言葉と人との間に空間があり、宙に浮いている言葉、
自分の内に存在するものを観じることで浮かび上がる言葉が、世の中に隠れていると思っている
「ありのままの自分」とかも宙に浮いている言葉だなと感じる。
ありのままの自分はまず存在しないと思っていて
自分の思うありのままの自分を演じて、
世間は裸の他人を勝手に夢みる、それをぐちゃぐちゃにして
平均をとったのが「ありのままの自分」と呼ばれると勝手に考えていて。
ありのままの自分なんて、思考を伴わない肉体だと思う。
だけど、ありのままの自分という言葉に、
人は安心するところがあるんじゃないかと思う。
辞書の意味から言葉が離れて存在しているというか
その言葉がその意味通りに存在するのではなく、宙に浮いていて
見えないものに対して無理やり言葉をつけた、みたいな
人の心の柔いところを支えるために、縋るための言葉というか。
うまく表現できないけど、言葉に助けられていると言ったら一番近いのかな…
今文章にしてみてもこの感覚をうまく言語化できなくて
書いてみると偉そうに聞こえる気がして少しそわそわしている。
言葉と思考に空間があいている感じ…
とにかく、実は意味の存在しない宙に浮いた言葉たちが
とても気になっているというつぶやき。